認知を変え、行動を変え、社会を変える — 認知行動工学分野の挑戦
大阪大学大学院人間科学研究科 認知行動工学研究分野キックオフシンポジウム 報告
2026 年 5 月 9 日、大阪大学・日本財団感染症センター(CiDER)1F 大ホールにて、大阪大学大学院人間科学研究科 認知行動工学研究分野のキックオフシンポジウム「認知を変え、行動を変え、社会を変える ― 認知行動工学分野の挑戦」が開催された(後援:CoBe-Tech 株式会社)。本シンポジウムでは、2025 年度に同研究科に新設された 認知行動工学研究分野(Cognitive-Behavioral Engineering)の設立を記念し、基調講演に続いて行動経済学・社会心理学・産業界・公衆衛生学の各立場から認知行動工学の可能性をめぐる議論を行い、さらに在籍大学院生による研究発表を交えて、新研究分野の挑戦と展望を共有した。本稿はその全容を報告する。
シンポジウムの背景
「認知行動工学」とは、認知行動療法(CBT)の理論と技術を、健康な人や社会全体の課題解決に応用する学問領域である。臨床心理学が個人・精神疾患患者を対象に発展させてきた介入技法を、組織・地域・社会全体へと拡張する試みであり、医療・教育・公衆衛生・産業保健・AI 実装などの領域で起きている「認知と行動のすれ違い」を、学習理論・認知心理学・行動経済学の知見を統合した枠組みで読み解き、マルチレベルで解消することを目指す。
研究分野の主宰者である 平井 啓 教授(大阪大学大学院人間科学研究科 行動学系 行動生態学講座)は、同分野を共同設立した 大竹 文雄 特任教授(大阪大学 CiDER 行動経済学ユニット)と共に、阪大発ベンチャー CoBe-Tech 株式会社(共同創業者:平井・大竹)を通じて研究成果の社会実装にも取り組んでいる。本シンポジウムは、新分野が掲げるビジョンを、関連分野の第一線の研究者・実装者と議論し、今後 10 年の方向性を描き出す場として企画された。
Session 1 | 基調講演
認知行動工学のビジョン — 研究分野の挑戦と展望
演者:平井 啓(大阪大学大学院人間科学研究科 認知行動工学研究分野 教授 / CoBe-Tech 株式会社 共同創業者・取締役 CTO / 博士(人間科学)・公認心理師)

Part 1:すれ違いの諸相 — 共通構造をもつ社会課題
平井は、医療・教育・公衆衛生など現代社会のさまざまな現場で「相手のことがわからない」「思いが伝わらない」というすれ違いが起きていることから議論を始めた。これは個別場面での偶発的な現象ではなく、認知と行動のメカニズムに根ざした 構造的な現象 であるという。
患者と医療者の間では、見えている世界が大きく異なる。患者は「眼の前の詳細」(症状、不安)を伝えたいのに対し、医療者は「全体像と見通し」(経過、予後)を伝えたいと考える。両者は同じ問題を見ながら、地上と上空という異なる地平から語っている。がん検診の現場では、自治体は「正しい情報を伝えれば受診する」と想定するが、未受診者は均質ではない。「いつか受けようと思っている(26%)」「知っているけど受けない(17%)」「知らないから受けない(15%)」と、認知の参照点が大きく異なる人々が混在しており、単一のメッセージでは届かない。新人看護師の指導現場でも、ミスを起こした学習者と原因究明したい指導者の間で典型的なすれ違いが生じる。指導者が質問を重ねるほど、学習者は「責められている」と受け取り、認知が縮小して語れなくなる。
さらに大きな視野では、制度と現実のすれ違い(古い制度設計と新しい社会ニーズ)、人間とテクノロジーのすれ違い(情報過多による判断力低下、暗黙知伝達の喪失)、知識と実践のすれ違い(エビデンス・プラクティス・ギャップ)も顕在化している。平井は、これらすべてに共通する構造を読み解くことこそが、認知行動工学の出発点であると位置づけた。
Part 2:共通構造の理論化 — 学習理論と認知心理学
すれ違いを読み解く出発点として、平井は Kurt Lewin の場の理論 B = f(P, E) を提示した。行動 B は、人 P(認知・感情・特性・能力)と環境 E(物理的・社会的環境、先行刺激、結果)の関数として決まる。すれ違いは「P × E の交互作用」として読み解ける。
行動変容の理論は、Skinner のオペラント条件付け(A-B-C 分析:先行刺激 → 行動 → 結果)と Bandura の社会的学習理論(観察学習、セルフ・エフィカシー、相互決定論)に立脚する。これらは「環境を操作することで行動を変える」工学的応用の起点となる。
認知変容の理論は、認知心理学の二重過程理論に根ざす。System 1(直感・自動)は高速で無意識的、ヒューリスティクスとバイアス(損失回避・現在バイアス・確証バイアスなど)に頼る。System 2(熟慮・統制)は意識的だが容量が小さく、注意・ワーキングメモリ・抑制機能(実行機能)が支える。日常判断の大半は System 1 が担い、System 2 の関与は限定的である。Simon の 限定合理性 が示すとおり、System 1 のバイアスと System 2 の容量制限が重なって、すれ違い・誤判断・予防行動の失敗が生じる。新人看護師の事例も、疲労で System 2 が低下し、過去のクレーム経験(負の強化)が System 1 を支配して確認手続きをスキップした、と読み解ける。「責める」のではなく、認知と行動の構造をともに読み解く指導が可能になる。
Part 3:認知行動工学とは — 理論駆動の方法論
認知行動工学(Cognitive-Behavioral Engineering)は、CBT の理論と技術を、健康な人や社会全体の課題解決に応用する学問領域である。方法論は 「理論を固める → 検証 → 修正 → 応用・実装」 という反復プロセスをとり、理論の精度がソリューションの質を決めるため、理論構築こそが最重要のフェーズ であると平井は強調した。
CBT の3つの技法は、それぞれ工学的応用と対応する。心理教育は情報設計・メッセージング・ヘルスリテラシーに、認知療法はフレーミング・セグメント別メッセージ・意思決定支援に、行動療法はナッジ・環境デザイン・システム設計・習慣化技術に対応する。ナッジは「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャー」(Thaler & Sunstein, 2009)として、限定合理性を前提とした行動変容技術である。OECD の BASIC フレーム(Behavior → Analysis → Strategy → Intervention → Change)が標準的な設計プロセスを与える。ナッジは System 1 への介入、教育・確認の徹底は System 2 への介入であり、両者を組み合わせて設計する。

セグメンテーション は「全員に同じメッセージ」では届かない現実への対応である。Ishikawa, Hirai et al. (2012) はがん検診受診行動を 3 セグメント(計画意図あり/脅威認知あり計画なし/脅威認知なし)に分け、それぞれ実行意図ナッジ・Gain-frame・Loss-frame の介入で受診率の有意差を 1 年後追跡で確認した。Hirai et al. (2026) はその先で「現状維持志向 vs 目標志向」を領域横断の参照点として提案し、肝炎受療や特定保健指導など多領域で展開している。
Part 4:マルチレベルでのすれ違い解消
認知行動工学の介入は、領域(医療・産業保健・公衆衛生・教育・AI 実装)と レベル(個人・小集団・組織・地域・社会)の二軸で展開できる。理論の応用先は単一現場に閉じず、複数のレベルを連動させる設計が可能である。
個人レベルでは、がん患者のための問題解決療法プログラム(Hirai et al., 2008, 2012 JJCO)が、患者特有の「心配」を心理教育・認知療法・行動療法の3技法を統合的に用いて扱い、治療中の乳がん患者の不安・抑うつを有意に減少させた。個人〜小集団レベルでは、市立岸和田市民病院での緩和ケア病棟心理コンサルテーションにおいて、公認心理師として「患者の見えている世界」を多職種に翻訳し、チーム回診・カンファレンス・院内勉強会・認知症ケアチーム連携など多面的な活動を行っている。

集団レベル では、Hirai et al. (2026) Front. Public Health が特定保健指導対象者 1,125 名を行動経済学的尺度で測定し、k-means クラスター分析で 7 セグメント を発見した。CHAID で 9 項目の簡易判別アルゴリズムを構築し、Phase 2(n = 4,900)で各セグメントに最適化したメッセージの効果を mixed-effects ANOVA で検証している。第一分岐は「将来への期待」であり、上位(Higher)が目標志向参照点(Seg 1–3, 51.7%)、下位(Lower)が現状維持参照点(Seg 4–7, 48.3%)に分かれる。既存の特定保健指導は「リスクを理解させれば変える」という合理性前提に立ち、目標志向セグメントには有効だが、約半数の現状維持参照点には届いていない。
Part 5:ゲームチェンジ — Provider–Receiver 均衡を動かす

セグメント別メッセージングは第一歩に過ぎない。真の課題は、ヘルスケアプロバイダー(リスクを伝える)と現状維持参照点の対象者(変えない、損失回避)の間に成立する Nash 均衡 を動かすことにある。Axelrod (1984) の繰り返しゲーム理論が示すとおり、外来診療や保健指導は1回の説得ではなく、回を重ねた学習プロセスである。両者が最適化した結果として、医師は「簡潔な形式的確認のみ」、患者は「形式的に同意」する低コスト均衡に収束する。恐怖訴求は短期的には動かせても、繰り返しの中で防衛反応の低コスト均衡に呑み込まれる。受け手だけを動かそうとしても元に戻る ── プロバイダー側の戦略変革が必要である。Phase 2 の検証ではセグメント別メッセージで Seg 7 に d = 0.41 の効果量が確認されたが、効果は中程度に留まり、ゲームチェンジへの第一歩と位置づけられる。
AMED COMPASS Study(2023〜)では、保健指導の現場における対話を支援する AI エージェント 「FitLife Coach」 の研究開発を進めている。本研究の基本コンセプトは、保健師の役割を「リスクを伝える人」から「対象者とともに価値や動機を探る人」へと転換していくことを通じて、これまでの均衡関係を捉え直すアプローチを目指す点にある。対象者ごとの背景や参照点に応じた対話を可能にすることで、画一的な指導から個別化された保健指導への移行を図っている。予備的な現場検証では、対象者個別の動機の源泉が可視化される傾向が観察されており、引き続き設計の精緻化と効果検証を進めている。本研究で開発中の手法・システムの詳細については、論文発表および特許等の公開後にあらためて報告する予定である。
10 年後のビジョン — 心理学の社会実装フロンティア

10 年後の認知行動工学が解消すべき 3 つのすれ違いは、(1) 制度と現実、(2) 人間とテクノロジー、(3) 知識と実践(エビデンス・プラクティス・ギャップ)である。これらを貫く理論的装置が 「ゲーム理論 × Theory of Mind × メカニズムデザイン」 のメタ理論である。

① ゲーム理論 で均衡を同定し、② Theory of Mind で相手のメンタルモデルを構造化し、③ メカニズムデザイン(Hurwicz, Maskin, Myerson ― 2007 年ノーベル経済学賞)でゲームのルール自体を設計する。認知行動工学者は「ゲームの中のプレイヤー」ではなく 「ゲームの設計者(選択アーキテクト)」 である ── 平井はこの位置づけを今後 10 年の中心命題として提示した。
社会実装のフロンティアは、公共政策・制度設計(AMED、厚労科研江口・是永・中山班、SDM)、産業組織のマネジメント(ダイキン工業、JR 西日本、J-AIR)、AI 協働の現場(FitLife Coach、AI 問題解決療法、肝炎相談サポーター、CPRA プロファイラー)、ヘルスケアシステム(緩和ケア心理コンサル、治療と職業生活の両立支援)、教育・人材育成(大学院教育、看護協会管理者研修)、高齢社会の意思決定支援(緩和ケア、認知症ケア、終末期意思決定支援)に広がる。認知行動工学研究分野(2025〜)と CoBe-Tech 株式会社が、研究と社会実装の両輪を回す。
次世代の研究者・実装者には、(1) 問いを立てる力、(2) 理論を使いこなす力、(3) データを読み解く力、(4) 質の高いアウトプットを生み出す力、(5) アウトプットをアウトカムにつなげる力、(6) AI を使いこなす力 ── 6 つの力 を養成していくと平井は結んだ。「認知を変え、行動を変え、社会を変える。認知行動工学研究分野の挑戦は、ここから始まる」。
Session 2 | ゲストスピーカーセッション:「認知行動工学」への期待
2-1. 行動経済学の立場から — 認知行動工学の可能性
演者:大竹 文雄(大阪大学感染症総合教育研究拠点(CiDER)行動経済学ユニット 特任教授(常勤)/ CoBe-Tech 株式会社 共同設立者)
行動経済学の第一人者である大竹は、CoBe-Tech 株式会社の共同設立者として、行動経済学の知見を公共政策や医療分野に応用する研究を推進してきた。本セッションでは、行動経済学が認知行動工学に何を提供できるかを、コロナ禍の「オンライン帰省」キャンペーンからナッジの理論的基礎、そして 2026 年に WHO が日本に認定する見込みの 風疹排除 に向けた最新の実証研究まで、具体例を豊富に交えて議論した。
メッセージング — 「控える」より「できる」
大竹は、本講演で繰り返し強調すべきメッセージとして次の 4 点を提示した。① 「**を控えて」より「**ならできますよ」、② 「**していない人が多い」より「**している人が多い」、③ デフォルトを工夫する、④ ボトルネックを考える。コロナ禍の「オンライン帰省」のキャンペーンを例に、「帰省を控えてビデオ通話で」と表現するか「ビデオ通話でオンライン帰省を」と表現するかで、参照点と比較対象が変わり、受け手の認知が大きく変容することを示した。
医療現場のメッセージングについても、「塩分を控えてください」「お酒を控えてください」と損失を強調するより、「ラーメンは汁を残せば食べていいですよ」「お酒と水を交互に飲んでください」と参照点を変えて利得を強調するほうが、受診や行動変容を促しやすいと述べた。
行動経済学の基礎 — 損失回避・現在バイアス・社会的選好
行動経済学は、伝統的な経済学が前提とする「ホモエコノミカス(合理的で計算能力が高く、利己的な人間像)」の仮定を、心理学的に妥当な動機づけに置き換えて行動を説明・予測する学問である(Laibson & List)。大竹は 6 つの原理として、(1) 人は可能な限り最善の選択肢を選ぼうとするが、うまくいかないこともある、(2) 参照点と比較して自分の状況を評価する、(3) 自制心の問題を抱える、(4) 自分の物質的報酬だけでなく他人の行動・意図・報酬も気にする、(5) 市場でも心理的要因は重要、(6) 選択を制限することで人々を助けられる場合がある、を提示した。
損失回避 の典型例として、大腸がん検診受診勧奨はがきの2種類のメッセージ(パターン A:22.7%、パターン B:29.9%)を比較した実証研究を紹介。「絶対的な判断基準ではなく、参照点との比較で利得・損失を感じ、同じ大きさなら損失をより大きく評価する」という性質が、表現の選択で行動が変わる根拠となる。
現在バイアス については、宿題を夏休みの最後にやってしまった経験を引きながら、計画しても近づくとつらいことは後回しになり、楽しいことは前倒ししてしまうという人間の性質を解説。対策は、賢明な人が用いる コミットメント手段(将来の行動を今決めて変更できないようにする)であると論じた。
ナッジとスラッジ
ナッジ は「ひじでそっと後押しする」の意で、行動経済学を利用した行動変容技術である。「ナッジ」は選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する。 ここで言う「選択アーキテクチャー」とは、人々が選択し、意思決定する際の 「環境」 のことであり、ナッジを設計するにあたっては、自発的に合理的な意思決定をさせるための環境をどうデザインするかが重要となる。代表的なナッジは デフォルトの変更、情報提供、損失・利得の強調 など。一方、人を惑わせる望ましくない方向への誘導は スラッジ と呼ばれ、ナッジの対極に位置する。
デフォルト効果の実例として、緩和治療か延命治療かを選択する RCT で、緩和治療をデフォルトに設定した群では 77% が緩和治療を選択したのに対し、延命治療デフォルト群では緩和治療を選んだのは 43% にとどまった。デフォルトの設定は意思決定に決定的な影響を与える。
風疹排除に向けた行動経済学的介入 — 鉄道広告の効果検証
大竹は近年取り組む 風疹抗体検査の受診勧奨ナッジ研究 を詳しく紹介した。日本では昭和 37 〜 53 年度生まれの男性の風疹抗体保有率が約 80% にとどまり、集団免疫達成の障壁となっている。厚生労働省は無料抗体検査とクーポンを配布してきたが、特に対象期間の後半では、すでに反応する人々が受検を終え、行動変容しにくい層が残った。

研究では、家計内意思決定と利他性の性差 に関する開発経済学の知見(父親より母親に資源・情報を届けるほうが子供の健康・教育が改善される)を、先進国の風疹対策に応用した。2023 年 10 月 16 日〜11 月 15 日、関東の鉄道路線における広告キャンペーンを介入として、男性本人の通勤路線曝露(Study 1:N=9,580)と配偶者の通勤路線曝露(Study 2:N=3,685)の効果を Intention-to-Treat 分析で比較した。

結果は鮮明だった。男性本人のキャンペーン路線利用には有意な効果がなかった一方、配偶者の路線利用は抗体検査受検率に有意な正の効果 を持った。男性自身も広告は見ていた(広告視聴率が +2.2pp 有意に高かった)が、行動につなげる動機が不足していた。Study 3 の長期効果(介入後 1 年間)でも、直接曝露は効果がなく、配偶者曝露のみ効果が継続した。メカニズム分析から「情報効果(妻が情報を伝達)」は棄却され、説得効果(妻による働きかけそのもの) が主たる経路であることが示唆された。
この研究の貢献は 3 つある。① 家計内意思決定の知見を先進国の予防医療に応用、② 直接介入が限界に達した層に対する 代理人介入 の有効性の実証、③ 行動経済学・公衆衛生・開発経済学を横断する方法論の提示。2025 年 9 月、WHO 西太平洋地域事務局は、日本における 3 年間の土着株感染が確認されていないことから、風疹排除の認定 を視野に入れた状況にある。
大竹は、行動経済学が認知行動工学に提供できる最大の貢献は、こうした 「ボトルネックがどこにあるかを突き詰めていく」工学的視点 と、心理学・経済学を実装可能な政策に翻訳する方法論 であると結んだ。
2-2. 社会心理学の立場から — 認知行動工学の可能性
演者:三浦 麻子(大阪大学大学院人間科学研究科 教授/CiDER)
三浦は、社会心理学を専門とし、インターネット上の行動や認知バイアスに関する研究で知られる、平井の同僚である。「社会心理学の立場から見た認知行動工学の可能性」と題して、新研究分野が 継承可能な学問 として成熟していくために何が必要かを正面から問う議論を行った。
可能性は大きい、しかしその「足場」は何か
三浦は冒頭、「認知行動工学の可能性は非常に大きい」と認めたうえで、大学は研究機関であると同時に 教育機関 でもあるため、問われるのは「何を学生に身体化させるのか」であると論じた。学際性そのものは問題ではない。社会問題は単一のディシプリンだけでは扱いきれず、他分野の理論や方法を借りること自体は自然である。例えば行動経済学も心理学の知見を取り込みながら発展してきた。問題は 「何を基準に借り、選び、捨て、評価するか」 ── つまり、足場が必要であることだ、と。

その足場とは、知識の総量ではなく 判断の基準 である。三浦は次の問いを挙げた:何が良い問いか、何が十分な証拠か、どこまで主張してよいか、何が反証になるか、どのような副作用を考慮すべきか。
属人的成功から、非属人的な学問潮流へ
新領域は初期にはどうしても属人的になりやすい。強い個人がすべての過程を着想・牽引する。しかし大学に必要なのは、その個人の力量を超えて 継承可能な作法 である。学問潮流として残るためには、何を変える・測る・説明する学問なのか、理論・測定・介入・効果検証について最低限何を学ぶのか、何をもって「良い研究」とするのか、失敗(効かなかった介入や逆効果・誤用)をどう知識化するのか ── これらを明確にする必要がある。三浦は「これができないと、領域として確かに魅力的だろうということになるが、教育可能な学問としてはまだ不安定なのではないか」と率直に提起した。
社会心理学が提供できる視点

社会心理学は、行動を個人内の認知だけでなく 社会的文脈の中で捉える視点 を持つ。規範・信頼・社会的アイデンティティ・他者の存在が行動を形づくるという理解、介入の内容だけでなくその受け取られ方や解釈に注目する視点、平均的な効果だけでなく異質性や副作用まで含めて評価する姿勢 ── これらは認知行動工学に多くを寄与できる。
同じ勧誘でも、それが「支援」として受け取られることもあれば、「押し付け」「監視」として受け取られることもある。短期的に介入が行動を変えても、結果的に信頼を損ねたりスティグマを強めたりするなら、その介入は単純に成功とは言えない。社会心理学は文脈・質性・副作用を過剰に気にする学問であり、それは社会実装にまっすぐ向かわない弱点でもあるが、同時に 新しい実装志向の領域が学問として成熟するために必要なブレーキ でもある。

三浦は、「認知行動工学の可能性は大きい。だからこそ、属人的な問題解決の技法にとどまるのではなく、継承可能な学問として成熟していくための条件を考えてほしい。その足場づくりに、社会心理学は一定の役割を果たしうる」と結んだ。共同研究者・同僚として、平井とともに考えていきたいというメッセージで議論を締めくくった。
2-3. 産業界の立場から — 認知行動工学への期待
演者:小俣 貴宣(ソニーグループ株式会社 シニアコグニティブサイエンティスト / 早稲田大学基幹理工学部 客員教授 / 大阪大学大学院人間科学研究科 招へい研究員 / 慶應義塾大学環境情報学部 非常勤講師)
小俣は、精密機械メーカー、経営コンサルティングファームを経て現職。本セッションでは、産業界に身を置く立場から、認知行動科学の可能性に関して話題提供を行った。尚、本発表は小俣のこれまでの職務経験や個人的見解に基づくものであり、ソニーグループの公式見解を示すものではない。
イントロダクション — 施策デザインは中立ではない
小俣は冒頭、イントロダクションとして本話題提供に関連する 3 つの点に触れた。1 点目は、「あらゆる施策・デザインは、受け手に何らかの制約を与え、行動や意思決定に影響を与える」 点である。施策やデザインは決して中立ではなく、その背後には提供者側の何かしらの意図があり、その意図に基づいて表現されていると述べた。例として ドアの取っ手のデザイン や言語表現を紹介した。

2 点目は 「適切な手がかりを与えることで、行動や意思決定を制御できる」 点であり、デルブーフ錯視や回転するシルエット、Allen et al. (2017) のマラソン走破タイム分析(きりの良い時間の直前に走破した人の数が急増する)、Pope & Simonsohn (2011) のメジャーリーグ打率分布(3 割の前後で頻度に偏りが見られる)など、こちらも関連する事例を紹介した。
3 点目は 「こうした意思決定・行動の背後には無意識的・無自覚的な心のはたらきが介在している」 点である。こちらも感覚マーケティングの事例、QWERTY 効果(Jasmin & Casasanto, 2012)、潜在意識にはたらきかける刺激呈示がパフォーマンスを向上させる研究(山田 他, 2011)、チョコレートの選択実験(Onuki, Honda, Ueda, 2020)の例を紹介し、施策の枠組みが無意識的なレベルで人の行動や意思決定にはたらきかけることを述べた。
認知行動工学の強み
続いて、小俣は産業界の視点から認知行動工学の強みとして 行動変容(制御)を促進する介入施策、及び関連する背景知識の提供 を挙げた。具体的には、人の心理・行動特性に根差した効果的な介入施策を提供できる点、介入施策の「からくり」をその根拠と共に説明できる点、介入施策がもたらす効果・影響をある程度予測でき、また評価できる点である。1 点目に関連し、インタラクティブシステムのユーザーインタフェースデザインにおいて 認知工学(Norman, 1988, 2013)が貢献した例に触れ、これと同様に認知行動工学が関連諸分野に貢献することへの期待を述べた。その後、認知行動工学は、公共政策、健康行動の改善、環境保護、教育支援など、様々な分野に対して効果的なナッジの提供・創出に寄与すると述べた。
認知行動工学におけるダークサイド
その後、小俣は強みだけでなく、認知行動工学におけるダークサイドにも言及した。それは認知行動工学の研究成果が 悪用・誤用される危険性 がある点である。詐欺や欺瞞(ダークパターンなど)、行動嗜癖、依存症、中毒性のある施策、そして世論形成、プロパガンダなど、誰かの欲望や利益のために人々が「操作」される危険性がある。また人の認知の脆弱性につけ込んだ施策は枚挙にいとまがない。コンテンツプラットフォームにおける ポストプレイ と ビンジウォッチング(一気見)は、巧妙な仕組みにより人々が抗えないケースが生じている。これは意志の弱さの問題ではない。ある記事(“Digital Crack Cocaine: The Science Behind TikTok’s Success”)を紹介しながら、プラットフォームがギャンブル中毒を引き起こすのと同じ原理を採用している点について触れ、その後、背後にあると考えられる心理学的要因について論じた。興味をひきつけるショート動画がランダムに提示される(ように見える)点(間欠強化)、魅力的なショート動画をあたかも自分で引き寄せているような感覚が得られる点(行為主体感)、延々とショート動画が提供され続けるインタラクションデザイン(ツァイガルニック効果)。こうした巧妙な施策の類似施策が次々と開発されている。一方、こうした施策に対する法規制や制度、組織が登場している。
認知行動工学研究への期待
最後に、小俣は認知行動工学研究分野に期待すること 4 点を述べた。
- 実社会の要請に応える効果的な介入アプローチの研究・開発 ── 実験室環境(研究としての厳密さ)と実フィールド(実用性)の違い、生態学的妥当性を考慮した介入アプローチの研究・開発、同時に、実フィールドでの適用に耐えうる 評価方法 の研究と開発にも期待。またそれらの透明性も大事であり、介入施策のメカニズムだけでなく、適用時に予測される効果・リスクにも言及していくことが大事だと述べた。
- 介入施策の体系化と使いやすいフレームワーク・ツールの開発 ── 開発した介入施策の体系化や、Michie et al. (2014) の Behaviour Change Wheel のような実務で使いやすいフレームワークやツールの開発も求められる。そして開発したフレームワークやツールの使い方の指導・導入支援も必要ではないか。
- 市民への教育・啓発 ── 心理学的な人間観、認知行動工学の考え方や方法論・効用・リスク・限界、関連する倫理綱領や実践者としての行動規範についての教育・啓発、そして施策の背後に潜む 「介入の意図」を見抜く力 を養成していくことに期待する。『勝てば官軍』で良いのか。人々を「操作」するのではなく、あくまで人々の well-being の観点で介入施策を活用してもらいたい。慶應義塾大学で担当している授業では、こうした素養の獲得を目的とした学習機会を提供している。
- 新種・未知の介入施策/グレーゾーンへの対応 ── テクノロジーの進歩や社会・環境の変化に伴い、専門家でないと説明が困難な施策が増えることが予想される。「これは営業上の努力か、欺瞞か」「倫理的に問題ないか」といった問いに対して、認知行動工学の専門家が産業・社会の実践に踏み込んでいくことが求められる。
2-4. 公衆衛生学の立場から — 認知行動工学の可能性
演者:上田 豊(和歌山県立医科大学 医学部 先進予防・健康医学講座 教授)
上田は、昨年の夏まで阪大病院で 30 年間にわたり産婦人科臨床医として勤務し、2024 年 9 月から和歌山県立医科大学の公衆衛生講座に転じた。前職の阪大病院を一望する CiDER 大ホールから登壇し、「先ほどから皆様のお話を聞きながら『なんと空が青くきれいなのだろう』と感じている。立場によって見える景色が違うとおっしゃった平井先生の言葉を、実際の空の色ですら違うと改めて実感している」と切り出した。
公衆衛生学と認知行動工学は協奏的である
上田は冒頭、「認知行動工学なくして公衆衛生学の進歩はない。すなわち国民の健康向上はない」 と結論を提示した。公衆衛生学は疾患の罹患・死亡、特に格差をいかに解消するかを、制度的・構造設計的に見ていく学問である。一方、認知行動工学は個人の意思決定や行動変容、選択の設計を主なターゲットとする。両者の関係は 相互補完的 ── と一旦述べた上で、講演の最後には「むしろ協奏的(co-creative)」と表現を改めることになる。
偶発的な変化が生み出すヘルシーライフ
社会や環境の変化で本当に人の生活は変わるのか ── 上田はコペンハーゲンの自転車都市政策(通勤の約 49% が自転車、身体活動 +20〜30%)を例に挙げる一方、自身の体重変化を 偶発的な社会・環境変化の好例 として紹介した。「コロナ禍で飲み会がなくなり、4 年間で 30kg 減少(115kg → 85kg)。今は和歌山医大への赴任で片道 2 時間ちょっとの電車通勤になり、また体重が減りだしている」。偶発的なものに頼るのも良いが、より効果的に行動変容を引き出すには、「表示価格より 90% オフ、明日まで」のような 損失局面の参照点フレーミング を活用する方法がある。これを HPV ワクチン普及の文脈に当てはめ直すと「子宮頸がんリスク 90% オフ、高 1 まで」となる。
HPV ワクチン普及活動の歩み

上田は十数年にわたり HPV ワクチン普及活動に携わってきた。スウェーデンの報告では、16 歳以下での接種で子宮頸がん累積罹患率が 9 割減少することが示されている。日本では 2010 年度に公費助成が始まり、2013 年度から定期接種となったが、副反応報道が加熱し、厚労省は 積極的勧奨を差し控え た。「現在、子宮頸がん予防ワクチンの接種を積極的にお勧めしていません」というリーフレットが配布され、接種率は 80% 程度から 0% 近くまで激減。空白の 9 年間 が生まれてしまった。

上田はまず、エビデンスを作ることから始めた。生まれ年度ごとの 20 歳における HPV-16/18 型感染率のシミュレーション研究で、「2016 年度までに再開すれば 2000 年度生まれをぎりぎり救えるが、それより遅れると 2000–2003 年度生まれは対象期間を超えてしまう」「キャッチアップ接種 の仕組みがあれば、リスクを大きく減らせる」ことを示した(Ueda Y et al. Lancet Oncol. 2018)。論文だけでは伝わらないため、日本産科婦人科学会を代表して 2021 年 1 月 18 日に菅官房長官(当時)に面会するなど、政策提言を重ねた。2022 年度に積極的勧奨が再開され、キャッチアップ接種も実現、9 価ワクチンも導入された。
参照点を移動させる ── 認知行動工学との出会い

しかし、システムが変わっても接種率は回復しなかった ── 人は動かなかった。ここで上田が 平井先生 に相談し、認知行動工学の領域に足を踏み入れることになる。インタビュー調査で接種対象年齢の娘を持つ母親 8 名にメッセージへの反応を尋ねた。副反応リスクの数値情報(10 万接種あたり 7 件= 0.007%)や WHO・日本産科婦人科学会の見解を提示しても、接種意向は高まらなかった。一方、ある 28 歳未婚女性が婚約を機に初めての子宮頸がん検診を受診し、II a 期の子宮頸がんと診断され、広汎子宮全摘・両側卵巣卵管摘出術、術後放射線化学療法を経て、再発、永眠 30 歳に至ったという 症例提示 を見せると、母親たちは「娘がかかったらと思うと怖い」「副反応がちっぽけに見える」「打たせればよかったと後悔するかもしれない」と反応した。「副反応によって今の健康が害されるかもしれない」という損失局面の参照点を、「将来の健康・命を守る」という利得局面の参照点へ移動させる ことで、認知が変容したのである。
これをもとに作成したリーフレット「赤ちゃんと子宮を1度に失ったのぞみさんの症例」(上田が阪大病院で実際に経験した症例をもとに作成)は、岡山県下の中学校で配布され、認知行動工学の領域で個人の意思決定に食い込むツールとなった。現在、全国の接種率は 50% 程度まで戻ってきている。
宮崎モデル — 個人・コミュニティ・社会システムの三位一体

接種が日本で最も普及したのは 宮崎市 である。発表時点でほぼ全国最下位だった同市は、累積初回接種率 67%(女子)で全国トップに躍り出た。何が違ったのか。個人(情報) のレベルでは、年内 4 回の個別通知、ハガキ・チラシ、テレビ CM・Web・新聞広告。コミュニティ レベルでは、市内公立中学校全 27 校での産婦人科医による出前講座(参観日設定)、商業施設・カフェ・美容室での広報。政策・社会システム レベルでは、大学の臨時接種、医療機関での夜間・日曜日の時間外接種、商業施設での日曜接種。さらに男子接種も無料助成で実現した。これは 個人・コミュニティ・政策の三位一体の介入 であり、まさに認知行動工学と公衆衛生学の協奏である。

協奏としての公衆衛生学 × 認知行動工学
上田は最後に「相互補完的というより、むしろ 協奏的 である」と表現を改めた。「人の行動の『なぜ』を解き明かして人に寄り添う『知』と、人を『どう健康に導くか』を問い続ける『知』で、『健康で幸せな社会』に近づけると信じている」。公衆衛生学者として臨床の場から見た公衆衛生をいかし、認知行動工学とともに更新席を発展させたい ── 同分野設立への祝辞とともに、議論を締めくくった。
Session 3 | パネルディスカッション:「知 × 行 × 工」で描く未来とは
- モデレーター: 平井 啓
- パネリスト: 大竹 文雄、三浦 麻子、小俣 貴宣、上田 豊
- 参加: フロア参加者、オンライン参加者
セッション 3 では、ゲストスピーカー全員とフロア・オンラインからの参加者を交えて、認知行動工学が描く未来について三つの論点をめぐる活発な議論が交わされた。
論点 1:AI と人間介在 — メッセージング・行動変容介入に人は要るか
最初の質問は、長岡技術科学大学の長谷川氏より寄せられた。平井先生のがん検診受診の研究で紹介された クラスタリングによるセグメンテーションと最適化メッセージング について、対話型チャットシステム等で完全に自動化することもできれば、逆に公認心理師のような人が介在してメッセージを伝える方向も考えられる。実際に「人を介在させるかどうか」で行動変容介入・認知介入の効果に違いが生まれるのか、というものである。発言は 平井 → 大竹 → 三浦 → 小俣 → 上田 の順に展開された。
平井 は「非常に難しい質問」と前置きしつつ、今回紹介した中では AI エージェントに生成・作成してもらった上で保健指導に用いる実証実験を進めている ところだと応じた。「ならば直接 AI と保健指導を受ける人が対話すればよいのではないか」という発想もあり得るが、完全に AI が対応する形では 「責任の所在」が置けない ことが、制度的にも倫理的にも一番大きなネックになっていると考えていると述べた。認知行動介入、とりわけ専門家によるアプローチでは、専門家の責任をどこに置くかが制度的に避けて通れない問いになる。そこで現在は、専門家の責任のもとに 生成 AI を「参考書のような位置づけ」で活用しながら保健指導システムを運用する という形を取っており、それが人が介在する一つの価値だと考えているとした。ただし、その価値を理論的に言語化するところまではまだ至っていない、と率直に語った。
平井はさらに、人と人の間に生じる 「ゲーム構造(やり取り)」 によって動かされる現実がある一方で、逆にそのゲーム構造がなくなり均衡に落ち着く局面では「AI がこう言っているから」と言われた方が患者が受け入れる場合もある、と指摘した。どちらもあり得るからこそ、どういう条件・場面・選択においてそれぞれが起こるのか、これ自体が今後の重要な研究テーマになっていくのだろうと結んだ。
大竹 は、AI の受け止め方は社会心理学的にも経済学的にも、社会とともに変わってくると応じた。経済学の実験では 株価予測 を AI にさせる場合と専門家にさせる場合でどちらを信頼するかを問う研究があるが、かつては「人間がやったもの」の方を信頼する傾向だったのが、最近の日本での実験では AI の方を信頼してしまう という結果が出ている。効率的市場仮説 に照らせば、今日の株価をそのまま明日の株価として予測するのがベストにもかかわらず、AI の予測の方がパフォーマンスが悪くてもそちらを信じてしまうという。文章でも、今は生成 AI っぽい文章は嫌われる傾向があるが、ひょっとするとそれが好かれるようになるかもしれない ── どちらを好むのか、何を信じるのかは時代とともに変わっていくのだろう、と述べた。
三浦 は「私も答えはないんですけれども」と前置きしたうえで、会場を驚かせる告白をした。「今日私がお話ししたことは、ほぼ生成 AI 製なんです」。認知行動工学研究分野のウェブサイトとシンポジウム情報を見せたうえで、「私は日々平井先生の研究分野のことを考えている。そういう情報を入れて 20 分で喋るもの(原稿・スライド)を作って」と生成 AI に依頼し、出来上がったものに多少の修正を加えて発表したという。作りながら、「これなら私が直接喋りに行かなくても、読み上げてもらってる音声を流せばいいじゃん」と思ったとのこと。専門家として喋るという意味では同じであり、聞き手の中には「流されたもので十分」と感じる人もいれば「平井先生が話してくれないと」と感じる人もいる ── 受け手によって、時代によって、状況によって様々であり、面白いご質問だったと感想を述べた。
続けて三浦は、コミュニケーションは単にシンボルだけのやり取りではないと指摘した。対面で向かったとき、目線がどこを向いているのか、声の抑揚といった情報こそ意思決定の判断材料になっている こと、今後ヒューマンエージェント・インタラクションの分野が発達してエージェントが人間の普通の振る舞いを介するようになったら何が起こるのか少し怖い面もあること、恋愛ゲームのような要素がどう応用されていくかへの興味 ── テクノロジーの発展とコミュニケーションのあり方は今後注視していく必要があると締めくくった。
小俣 は、先生方と同じ回答になるが、と前置きして応じた。画一的な対応・反応 であれば、それは AI に任せておけば全く問題ないと思う。一方で、相手の反応を見ながら言い方を少し変えていく ── そういう 適応的なやり取り は、いずれ AI もできるようになるのだろうが、現時点ではまだ人が介在する方がよいだろうと述べた。ただし、中には「機械的に言ってくれた方が動きやすい」と強く反応する方もいるかもしれず、ユーザー側の個性に合わせた設計が重要であるとした。
上田 は論点 1 を締めくくる発言として、先生方の話を聞きながら考えたことを述べた。大竹の講演で出てきた 「配偶者から話を聞かされると、すごく効果が高かった」 という風疹研究を振り返り、これがヒューマン・コンピューター・インタラクションを将来的に開花させていくにあたり、人を介在させる方向性を考えるときに「誰が誰に向けてメッセージを発するか(インプット)」が一つのヒントになるのではないかと感じた、と論点を結んだ。
論点 2:認知行動工学の「ディシプリン」とは何か — 教育プログラムの設計
二人目の質問者として、大阪大学の中川氏が、平井先生と三浦先生に向けて 「認知行動工学研究分野ではどういう学生に来てほしいか」「どういうプログラムを構想しているか」 を質問した。背景には、社会課題は「これを解決したい」という問いが外から持ち込まれるパターンが多く、自分の研究室では学生自身が問いを持つことができても、フィールドや実験場を持てない学生もいる。工学では外から来た問いに対して先生・大学院生・学生がプロジェクトを組んで取り組み、その中で各自が問いを見つけていくスタイルがある ── 認知行動工学はどちらの哲学で、どんなコースワークを設計しているのかという問題関心である。
平井 は「30 分かかりそうな質問」と笑いつつ、本質的なところを端的に述べた。社会課題には、色々な困りごとを抱えた人から掘り起こされて仕事がスタートするパターン と、私たち研究者側から問題意識を持って外に問いを出していくパターン の両方がある。現在の取り組みでは、学部 3 年生中心の PBL(プロジェクト・ベースド・ラーニング) を平井・三浦の両研究室で連携して実施し、外にある課題・問題を持った人に来てもらって、それを具体的に心理学的にどう解決するかを学生自身に体験させている。一方で、修士・博士のプログラムでは、自分自身の問題意識から問いを立てる ことを中心に置いており、両方をちゃんと体験することが教育的に必要だと考えている。1 年目から試行錯誤しているところだが、結果的に両方を体験させることが大切だという結論に至っている、と述べた。
三浦 は「一部ですか?(笑)」と返したうえで、「やっぱりよくわからないんですよ、私には」 と率直に応じた。平井先生は(実践として)できると思うが、自分にはまだ 「ディシプリン」がわからない。外から来た問題であれ、自分が持っている問題であれ、それを研究として組み立てていく時に、いろいろなものを探すことは可能だとしても、「根幹として何を持たせるのか」 がまだ見えない ── 講演で述べた「足場」の問題を改めて投げかけた。
大竹 は、これに重ねて自身の見解を述べた。プロジェクトの問いも、持ち込まれる分野も違えば、有効な理論もそれぞれ違ってくる。かなり個別最適化(テーラー)になるため、コアとして「何を受けるか/受けないか」を選び取っていく話になる ── そう聞いていて、三浦の言いたいことが感じられたと述べた。「いい意味でも悪い意味でも、科学というよりはやっぱりエンジニアリングなのかな」 と感じる。プロジェクトがあって、それに学生がついて、研究をする中で何かが身についていくスタイル。これは大竹自身の社会心理学研究室の運営の仕方とは根本的に違っており、自分は外からプロジェクトが来てもそれを学生にさせることはほぼないという。やり方の違う臨床老年心理(健康心理学)におられる平井先生に対して、三浦と同じようなことを感じた ── このことは、自分自身にとっても 認知行動工学研究分野に対する期待と問いが深まった という印象だったと結んだ。
論点 3:研究と社会実装の調和 — セグメンテーションとスケールアップ
最後にオンライン参加者から寄せられた質問が司会により代読された。「平井先生のご講演でセグメンテーションを実施した研究をご紹介いただきましたが、研究領域・対象の細分化はすればするほど研究成果が出やすくなるかと思います。しかしながら研究分野として 社会課題の解決をゴール としているならば、社会実装に向けたスケールアップ・研究対象の拡大 も重要かと思います。このベクトルの違う研究志向をどのように調和されるのか、何か方針などございましたらお教えいただきたい」というものである。
平井 は、このご質問はちょうど上田の質問にもリンクしていると応じた。究極のセグメンテーションは「その人に合わせる」こと ── 自身も昨日臨床で患者と話していたが、その人に合わせて声かけの仕方・関わりを変えていく、これが最大のセグメンテーション(個別対応)である。ところが、これだと 公衆衛生のような大規模社会実装ではコストが莫大になって全く立ち行かない。そのため公衆衛生はこれまで一律同じメッセージを送るアプローチを取ってきており、その中間形態がセグメンテーション(細分化)だった。ただし、セグメントを細分化すればするほど判別精度は下がり、介入のアレンジも複雑になるため、現実的ではない ── これが 2012 年当時の平井の現実解だったという。
しかし今は 生成 AI・LLM(大規模言語モデル)の技術 を活用することで、かなり細かく個別の介入メッセージを作り込むことが、しかも自動化された形で可能になってきた。もう一個下の段階 ── より細分化された大規模配信 ができるのではないかと考え、現在、個別の対象者に合わせて介入のアプローチを自動的に作る仕組みを構築しているところだとした。個別性とスケールアップを両立させる ── そのために生成 AI・AI 技術を活用していく、というのが現時点での取り組みの方向性であると応えた。
平井はパネルディスカッションをここで締め、登壇者・参加者への感謝とともに、予定を少々超過したセッション 3 を閉じた。
Session 4 | 在籍大学院生による研究発表
シンポジウム後半では、認知行動工学研究分野所属の大学院生 3 名が、それぞれ最近の学会発表内容を再構成して発表を行った。
4-1. 特定保健指導に対するアドヒアランス向上のための介入メッセージの開発
発表者:山本 真由(共同:平井 啓・坂口 桃彩・田辺 和奏・伊吹 紀乃/京都大学 渡邉 拡人・峰晴 陽平/阪急阪神ホールディングス 内野 詠一郎・吉田 安里) 演題出典:第 32 回日本行動医学会学術総会 口演発表部門 優秀演題賞受賞演題
山本らは、特定保健指導対象者のアドヒアランス(目標に向けた健康行動計画の遵守)向上を目指したアプリ介入プログラムを開発している。2023 年度の保険指導 20% 実施率は 7 割を超え、対象者の 健康行動への無関心さ と、画一的な受診案内による動機づけの困難さが問題となっている。本研究は、無関心層をターゲットとし、認知・行動特性に応じた個別化介入メッセージの効果を検証することを目的とした。
方法: 平井ほか (2024) のクラスター分類をもとに、企業勤務 20〜60 歳男女 3,754 名に対しインターネット調査を実施。メッセージは損失フレーム・利得フレーム・現在バイアスを対象とするメッセージ・自己効力感を与えるメッセージなど 10 種類を用意。プロケア行動(受診行動 3 項目)とセルフケア行動(生活習慣・自己管理 8 項目)の意図変化を共分散分析で検証。クラスターは「何とかしたいが時間がない」「自分のことはよく分からない」など 7 分類。
結果: プロケア行動意図 3 項目すべてでメッセージの主効果・クラスターの主効果が認められた。損失フレーム と 具体的な現在バイアス メッセージは、未来の損失や今の先延ばしに訴える形で動機づけを高めた。セルフケア行動意図は全項目でクラスター主効果があり、「6: 将来不安諦めモード」「7: 自分は大丈夫」は他のクラスターよりメッセージの効果が弱かった。一方、「身体に良い食品・栄養素をとろうと思う」で唯一交互作用が観察され、「6: 将来不安諦めモード」では損失フレーム・利得フレーム・自己効力感・正常性バイアスメッセージが効果を発揮した。
考察: プロケア行動は非日常・単発行動であり、メッセージが機能しやすい。一方セルフケアは反復的・自己管理的であり、メッセージのみでは難しい。それでも無関心層の中でも介入のしやすさに違いがあり、適切なフレーム配信により意図改善は可能であることが示唆された。課題: 行動意図の上昇 ≠ 実際の行動増加。今後は本人の意志をワークシートで言語化し、健康管理アプリへの実装(通知強度・頻度・ワーディング)に進める。
4-2. 客室乗務員の認知的職務負荷尺度の構造分析とストレス状態にもたらす影響
発表者:斎藤 遥花(共同:平井 啓) 演題出典:第 33 回日本産業ストレス学会 口頭発表演題
斎藤らは、現在のストレスチェック制度が業種・職種ごとの特性を十分に反映していない課題に着目し、航空業務特有の認知的負荷を測定する尺度を開発した。
方法: 航空会社の客室乗務員 136 名(スタッフ 80 名、スーパーバイザー 56 名)を対象に、認知的職務負荷尺度 43 項目、ストレス状態(脳疲労)尺度 20 項目、ストレスマネジメント行動 9 項目、自己効力感 6 項目への回答を求めた。
結果(研究 1:因子構造): 探索的因子分析で 7 因子構造が最も解釈可能と判断された。第 1 因子「規則責任」(先々のことを考える、守らなければいけないルールが多い)、第 2 因子「状況判断」(短時間で自ら収集した情報に基づいて判断を行う)、第 3 因子「心身不適応」(家族とのスケジュールの合わなさや権威的に振る舞う人との業務)、第 4 因子「職務不満足」(チャレンジできる機会の少なさ)、第 5 因子「対人評価」、第 6 因子「環境負荷」、第 7 因子「事務管理」(他の因子と負の相関)。
結果(研究 2:ストレス状態との関連): 「心身不適応」が脳疲労尺度と最も強い正の関連、「事務管理」が中程度、「職務不満足」が弱い関連を示した。
結果(研究 3:媒介効果): ストレスマネジメント行動のうち「意識的にリラックスする時間を取っている」のみ有意な媒介効果が見られた。自己効力感では「悩んでいるときにうまく気持ちを切り替えることができる」「自分なりに工夫をして自分のストレスを減らすことができる」が媒介効果を示した。
展望: 尺度の短縮版開発、他職種への適用検証、認知特性等による個人差検討。ストレスマネジメント教育 においては、「リラックスする時間を取ること」と「自己効力感を向上させること」を軸にした研修が有効であると示唆された。データ収集は株式会社 J-AIR 客室乗務員の協力を得て実施。
4-3. がんサバイバーの健康行動や健康についての信念によるセグメンテーション分類
発表者:下豊留 愛(共同:平井 啓・山村 麻予・小川 朝生) 演題出典:第 38 回日本サイコオンコロジー学会総会 2025 ポスター発表演題
下豊留らは、がんサバイバーが非がん疾患を含む多様な健康問題(心血管疾患等の慢性疾患リスクの上昇)に直面する一方、必ずしも全員が適切な予防行動を実践していない現状を踏まえ、がん種を横断したセグメンテーション分類を試みた。
方法: これまでにがんと診断され治療した/している 20 代以上男女 1,700 名(男性 1,066、女性 532、その他 1。男女比約 2:1)にインターネット調査を実施。基本属性・健康状態・受診行動・健康行動・リスク認知・心理社会的要因を含む 137 項目を測定。記述統計後、主成分分析で 13 成分を算出し、各得点・健康診断項目・性別・がん治療医/かかりつけ医の有無を変数として k-means クラスター分析を実施、8 クラスターを採用した。
結果: 8 クラスターは以下のように特徴づけられた:①健康過信型(医療者支援が弱い、予防行動少、強めの運動のみ、情報を集めない、自分は健康だと思っている)、②がん治療一元管理型(がん治療医とかかりつけ医が同じ、予防行動度合いは平均的)、③健康楽観型(リスク認知が低く比較的高齢、幅広い予防行動)、④バランス型(医療者支援あり、不安低、将来期待、強めの運動以外の予防行動)、⑤医療システム非接触型(がん治療医・かかりつけ医なし、強めの運動以外の予防行動はとらず)、⑥慢性不安悲観型(がんアイデンティティ高、健康習慣に乏しいが情報は積極的に集める)、⑦がん治療抗不安型(幅広い予防行動、情報を積極的に集める、医療者からの支援あり)、⑧健康管理放棄型(予防行動・健康習慣ともになし、医療支援弱、情報も集めない)。
考察: 疾患の原因を置く統制次元(内的/外的)と、かかりつけ医の有無が類型化に関係する可能性が示唆された。リスク認知が高く健康行動の実践度が高い群と、リスク認知が低く実践度が低い群が見られ、後者の中でも全体的に不安が高い群と、がんに関する不安のみ高く他疾患への不安が低い群に分けられた。各セグメントの特徴を踏まえ、それぞれに応じた 適切な医療コミュニケーション の検討が今後の課題である。本研究は国立がん研究センターがん研究開発費および住友ファーマ株式会社共同研究費の支援のもと実施された。
閉会のご挨拶・今後の展望
シンポジウム最後、平井は閉会の挨拶として、本日のディスカッションで「このコア研究分野について宿題をいただきました。これを今後、出題にちゃんと答え出せるように頑張って活動していくのが、今日与えられた私のつながるかな」と振り返った。三浦から問われた「継承可能なディシプリン」「コアになる判断基準」をどう構築するか、大竹が示唆した「行動経済学側からの工学的アプローチ」と心理学トレーニングの組み合わせ、小俣が提示したダークサイドへの対応、上田が示した「協奏的」公衆衛生学との関係 ── 多角的な論点が出揃った。
「我々の活動のアウトプットの機会を今後も作っていきたい。それぞれ学会発表に取り組んでいるメンバーがいるので、そういうところで議論する機会を今後も作っていきたい」── 認知行動工学研究分野の挑戦は、本シンポジウムをきっかけとして、ここから本格的に始まる。
主要参考文献
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